ふたりの人生で思うこと

子供のいない人生を選択し、その道を歩く過程で思うことを書いています。ある程度考えがまとまってからアップするので更新は相当遅いです。

「夫のちんぽが入らない」を読んだ

”夫のちんぽが入らない”
この題名を聞いた時にすぐ、

 

あ、うちは”夫のせいしが見当たらない”だ・・・って思った。

 

 

単行本が出版された時期からこの本のことは知っていたけれど、まだ読めない・・・ってその当時は思っていた。

やっと自然と今なら読めるだろうと思えるようになり数日前に一気読みした。一気にするする読めてしまう。やっぱり話題になるだけ、すごい本だなぁと思った。

 

切実な問題であるはずなのに、どこかユーモアがあって。
特に中心となる問題を表現する言葉。

 

でん・ででん・でん。


ここを読んだ瞬間、この表現できたかー!って思った。

 

私も”せいしが見当たらない”という状況をこだまさんのような言葉で表現できたらいいのに・・・なんて頭をよぎるほどに。

(まぁ、リアルで問題に直面してる時はどん底だから、”いま振り返れば”なのである。そう思えるってことはそれだけ、あの時よりは穏やかな時間が流れているというあらわれなんだと思う。)

 

 

こだまさんとうちの状況は、外から見える部分では同じだ。
夫婦2人暮らし、という意味で。

 

でも、その結果に至るまでの過程やどんな思いだったのかは違う。というか、夫婦の数だけ違いがあるものだ。その”違いがある”ということをどれ程の人が気づき、自覚できているのであろうか?

 

自分だったら・・・、

 

屈託のない笑顔で「赤ちゃんいつ産むの?」とは聞かないだろう。
「どうして子供いないの?」
「早い方がいいよ」
「もし悩んでいるんだったら病院紹介するよ。絶対産んだ方がいいよ。」

「後悔するよ。」

 

なんて誰かに言うわけがない。というか、そんなことを言うヤツの顔を斬りつけてやりたいくらいの気持ちにだってなる(相手から病院を紹介してというような相談があればそれに応じた対応をするが、そんな相談もないのにこちらから語ることはない)。
なぜ産むことが前提になっているんだよ。。。

 

上記の「」の中の部分はこだまさんの本に書かれている表現だ。

 

ちなみに自分のリアル体験としては

 

「次は子どもね!」
「(子供がいないから)暇でしょ~?」
「早く産んだ方がいいんじゃないの?」
「予定日は春頃?」
(子どもはまだ?の質問の後に)「身体は丈夫なの?」

 

という言葉をありがたく投げつけられた。予定日は春頃?って、もちろん妊娠した報告なんて(妊娠自体があり得ないわけなのだから)一切していない。頭がおかしすぎるだろ。。。身体は丈夫なの?という問いかけにはひきつった顔で、丈夫です!って答えた。

だから、こだまさんの本を読めて、そして、こだまさんの本を多くの人が読んでいる(読むであろう)ことがとてもうれしい。

 

 

大きな声で言い放ち、和やかな空気を一瞬で凍りつかせたい衝動に駆られる。
みなさん、先生は夫のちんぽが入りません。


わかる。こだまさん、わかりすぎるよ!!!
この部分を読んだ時にわかりすぎて胸が苦しくなった。

 

私だってあまりにも的外れな、相手と自分との思いがまったくバラバラな会話をせざるを得なくなった時、その空気を一瞬で凍りつかせたい衝動に駆られることがある。

 

こちらが子どもを望むとも何とも言ってない状況において、子どもをそのうち産むだろう、産んで当たり前という文脈の言葉を投げかけられた時。

みなさん、うちは夫のせいしが見当たらないんです。って、言ってやりたい。

 

(もちろん言わない・・・、そして、本当に言ったら今度は”そんなことを言うなんて旦那さんがかわいそう”と思われるであろう。そういうものである。そういうものなんだよ。)

 

 

何度も思う。
シンプルに、”相手から報告を受けたらおめでとうでいいのにね”、って。

 

相手からの報告もないままに、また、相手が子どもを望んでいるとも何とも言ってないのに、子どもを望むだろう(産むだろう)という前提の言葉を投げかけてるから相互の組み合わせによっては的外れでとてつもなく残酷な会話になってしまうことがある。

 

自分は子どもがいて幸せだ、と言うのならこちらは”そうなんですね”という感じだが、その先に”だからあなたも”という流れになるのであれば”それは違うだろう(あなたが勝手に決めるなよ)”と思う。

 

さらに言えば、勧めることを正当化するために”女の幸せ””一人前””親孝行”という考えや、少子化という社会問題と関連付ける文脈で語る場合もあるからこそたちが悪い。こちらはそうできない理由もあかせない(あかしたくない)、そして、はっきりと否定もできない。

苦笑いで何とかやり過ごすその瞬間、私はまるで泥水を飲まされたような思いになる。


残念ながら、どこにでもこういう会話はある。友達同士の会話でも、親戚の集まりでも、職場内でも、ご近所づきあいでも。それを自覚している人は自覚しているが、自覚していない人はそんな会話があったことすら忘れてしまうんだろう。

 

もちろん、”背中を押してもらえたから自分は子どもを産めました”と語る人もいるだろう。ある程度の圧力があったからその選択ができ、その選択を肯定的に受け止められる人もいる。でもそれは、”結果としてそうなったからオープンに語れる”のである。語られない部分にはなかなか光は当たらないものだ。また、語られないからといって”存在しない”わけではない。

 

語れない状況を背負っている人も確実に存在する。

 

 

こだまさん夫婦が歩んできた二十年間を追体験し、最後にこだまさんが本当に言いたかったことを読んだ時に、どぅわっと涙が出てきた。

 

この本が、そして、こだまさんの言いたかったことがたくさんの人に届いてほしい。
そう願っている。