”子供はいた方がいいよ”と言われた話
数日前の話。
何年振りかで会った恩師から”夫婦2人もいいけれど、やっぱり子供はいた方がいいよ”と言われてしまった。
そしてその言葉を横で聞いていた友人からも間髪入れず”私ね、あんまり子供が好きじゃなかったんだけど、子供ができたら違ったよ~”と言われてしまった。
私が結婚して夫婦2人で暮らしていると近況報告したとたんにそんな言葉を投げかけられた。その言葉の流れは、あきらかに私に対して子供を産むことを推奨する意味合いの会話だった。
というか、私がいつあなたたちに子供を産みたいとか、子供がほしいとか言ったか?あん?なんで産むことが前提となってる会話なんだよ。
残念過ぎる。まったく残念過ぎるよ。40代に突入してもこれかよ、と、あきれ果てる。
あの・・・いいですか?当方すでに、今の医療をもってしても夫婦の実子を望むことが不可能な現実を突きつけられてるんですがね・・・って突っ込みたかった。そして、いったい何歳までこんな不毛な会話をしなきゃならんのかね、と思った。
”夫婦2人もいいけれど、やっぱり子どもはいた方がいいよ”って、、、あきらかに現在夫婦2人で暮らしている私たちのライフスタイルを子供がいる夫婦より下に見てるってことだよ。その残酷さがお分かりだろうか?
そして、子供を産むことを推奨する文脈で、”私ね、あんまり子供が好きじゃなかったんだけど、子どもができたら違ったよ~”と言うのは、”あなたはきっと自分の子どもがかわいいという現実を知らないだろうから私が教えてあげる”、と思ってるってことじゃないか?(そこまで深く考えてない言葉だったとしても、そういう意味になってしまうでしょ)
あん?私がいつ子供があまり好きじゃないと言った?夫婦共に子供を望んで願って努力して痛い思いをして、それが叶わずさんざん泣いて何年も苦しんできたんだよ。子供が好きじゃないから子供がいないわけじゃねーよ!って言いたかった。
まぁ、そんな気持ちを切々と訴えたくもなるが、それを言ったら言ったでその後の人間関係がめんどくさいから言えず、結局、苦笑いしてその場をやり過ごすしか私にはできなかった。
”無難”にその場をやり過ごすという方法をとることしかできないんだよ。
(念のため、恩師も、その場にいた友人も”悪気がない”ということはこっちだって100%わかっているとは言っておきたい。でも、それじゃ納得できないからこうやって切々と書きなぐるのである。)
☆
こだまさんが”夫のちんぽが入らなない”という本を書いた気持ちがよくわかる。こっちだって”夫のせいしが見当たらない”と言ってやりたい。
卵子だけで、どうやって”夫婦の実子”を授かれるんじゃ?お前はそれができるんか?できるんだったらやってみろやボケ!って言えないけど言ってやりたい。
☆
こういう不毛な会話を繰り返していくと、”子どもができなかったから離婚”なんてパターンはあり得る状況なのかもしれないと頭をよぎったりもする。もちろんそれって”夫婦関係だけ”の問題でもないんだよ。いくら夫婦関係がよかろうとも”産めハラ”をナチュラルに悪気もなく無邪気にあなたのためを思って(んなわけないけど)という気持ちで投げかける層がまわりにいたらそりゃ離婚だってしたくなるかもな・・・って思ったりする(離婚したらこんなこと言われなくて済むかも、みたいに思うよ、マジで)。
”子供ができなかったから”だけの理由なんてないんだよ。子供がいることに価値を置く言説をまき散らす層がいるから、というのも離婚したくなる理由の1つになるかも(まぁ、それで実際に離婚するまでいくかは別だし、そもそも、夫婦の数だけ理由はそれぞれあるんだろうけどね。)。
もちろん”人は人、自分は自分、そんなまわりの声なんか気にしちゃだめよ!”なんて諭す人もいるかもしれないが、いやいや、人の心ってそんなスパッと割り切れるもんじゃないよ、って言いたくなったりもする。見えるものや、聞こえてくる言葉に何かしら惑わされたり影響されたりすることもあるよ。白黒はっきりその場ではつけられず、グレーゾーンのグラデーションを生き続けるしかなかったりもするんだよ。
しかもそれが”子供を望んでいたのに、今の医療をもってしても実子が望めない”という現実を突きつけられた後の夫婦だったらなおさらでしょ。
それでも、それでも何とか2人で必死に歩きだそうとしてる時に、無邪気に自分の子どもはかわいいよ♡なんて言ってくる奴に遭遇したら心折れるよ。ボキッ、って。
こんな残酷な世界ある?って言いたい。誰だって、子を亡くした友達に対してならそんなことは言わないだろう。でも望んでも望んでもその願いが叶わなかった人に対してはあり得る。
”知らなかったから仕方ないじゃん”とも言えるだろうけれども、なぜに初期設定が”結婚すれば子どもがそのうちできる”とか”結婚したら(適齢期になったら)子どもを望むもの”になってるんだ?自分がそう思うならどうぞって思うけれど、目の前の人もそう思ってるなんてお前が勝手に決めるなよと言いたい。
☆
こういう出来事に遭遇すると、あぁ、自分たち夫婦のパターンって、世の中から”ないもの”とされてるんだなって気づくんだよね。
要するに、
①結婚し、そのうちに子供ができた(できるかも)
②結婚し、不妊治療の末に子供ができた(できるかも)というパターンはある程度想像がつくんだろうと思う。
でも私達夫婦みたいに
③今の医療をもってしても子供を授かることはない、というパターンの夫婦はないこととされてる。
もし、①②と同じ感覚で③の夫婦もいると想定できるのならば、”夫婦2人もいいけれど、やっぱり子どもはいた方がいいよ”とは言えないはずだから。それをナチュラルに誰かに言える人というのは③の夫婦が見えてない。きっと無自覚なんだろうが”ないこと”にしちゃってるんだよ。
確かに、①・②のパターンに比べれば、③のパターンの割合の方が正確な数はわからないけれど少ないだろう。でも”少ない”からといって”存在しない”わけではない。だれでもかれでもオープンにするわけではないだろうが、確実に③の状況を背をって生きている人もいるんだよ。そして、たまたま産むことを推奨する言葉がけをした相手が、まさにその状況を背負っている人かもしれないんだよ。
(ちなみに①~③のパターンってあくまでざっくりとした分類で書いてしまっているけど、その夫婦の数だけ違いはある、とは言っておきたい。)
何度も書いてきたし、これからも言っていこうと思っているけど、例えば自分たちの親の世代なんかより今の方が”ブライダルチェック”という言葉も浸透しているわけだし、そもそも男性側の検査もスマホでできる時代になっている。そうであるなら、③のパターンを自覚した上で結婚する夫婦は確実に増えるんだよ(それまでは調べようがなかったり、調べる機会が少なかったから本人たちの自覚はなく、数年後に病院にかかってはじめてその現実を知る場合の方が多かったと思う)。
それなのに、結婚=子供という考えを前提とした声掛けを誰かにするのは残酷じゃない?って私は思ってしまう(その人が心の中で思うことは自由だけど、それを相手に直接投げかけるのではぜんぜん違う)。
40代に突入した今の自分でもこういう会話が降りかかってくるのであれば、私たちと同じような状況の20代の夫婦も今後10年以上は言われる可能性があるんだよね。
それを想像できちゃうからこそ、辞めなさい、と言っていきたい。
何度も同じことを繰り返して言うかもしれないが、そのつどそのつどおかしいと思ったことを言っていきたい。
「夫のちんぽが入らない」を読んだ
”夫のちんぽが入らない”
この題名を聞いた時にすぐ、
あ、うちは”夫のせいしが見当たらない”だ・・・って思った。
☆
単行本が出版された時期からこの本のことは知っていたけれど、まだ読めない・・・ってその当時は思っていた。
やっと自然と今なら読めるだろうと思えるようになり数日前に一気読みした。一気にするする読めてしまう。やっぱり話題になるだけ、すごい本だなぁと思った。
切実な問題であるはずなのに、どこかユーモアがあって。
特に中心となる問題を表現する言葉。
でん・ででん・でん。
ここを読んだ瞬間、この表現できたかー!って思った。
私も”せいしが見当たらない”という状況をこだまさんのような言葉で表現できたらいいのに・・・なんて頭をよぎるほどに。
(まぁ、リアルで問題に直面してる時はどん底だから、”いま振り返れば”なのである。そう思えるってことはそれだけ、あの時よりは穏やかな時間が流れているというあらわれなんだと思う。)
☆
こだまさんとうちの状況は、外から見える部分では同じだ。
夫婦2人暮らし、という意味で。
でも、その結果に至るまでの過程やどんな思いだったのかは違う。というか、夫婦の数だけ違いがあるものだ。その”違いがある”ということをどれ程の人が気づき、自覚できているのであろうか?
自分だったら・・・、
屈託のない笑顔で「赤ちゃんいつ産むの?」とは聞かないだろう。
「どうして子供いないの?」
「早い方がいいよ」
「もし悩んでいるんだったら病院紹介するよ。絶対産んだ方がいいよ。」
「後悔するよ。」
なんて誰かに言うわけがない。というか、そんなことを言うヤツの顔を斬りつけてやりたいくらいの気持ちにだってなる(相手から病院を紹介してというような相談があればそれに応じた対応をするが、そんな相談もないのにこちらから語ることはない)。
なぜ産むことが前提になっているんだよ。。。
上記の「」の中の部分はこだまさんの本に書かれている表現だ。
ちなみに自分のリアル体験としては
「次は子どもね!」
「(子供がいないから)暇でしょ~?」
「早く産んだ方がいいんじゃないの?」
「予定日は春頃?」
(子どもはまだ?の質問の後に)「身体は丈夫なの?」
という言葉をありがたく投げつけられた。予定日は春頃?って、もちろん妊娠した報告なんて(妊娠自体があり得ないわけなのだから)一切していない。頭がおかしすぎるだろ。。。身体は丈夫なの?という問いかけにはひきつった顔で、丈夫です!って答えた。
だから、こだまさんの本を読めて、そして、こだまさんの本を多くの人が読んでいる(読むであろう)ことがとてもうれしい。
☆
大きな声で言い放ち、和やかな空気を一瞬で凍りつかせたい衝動に駆られる。
みなさん、先生は夫のちんぽが入りません。
わかる。こだまさん、わかりすぎるよ!!!
この部分を読んだ時にわかりすぎて胸が苦しくなった。
私だってあまりにも的外れな、相手と自分との思いがまったくバラバラな会話をせざるを得なくなった時、その空気を一瞬で凍りつかせたい衝動に駆られることがある。
こちらが子どもを望むとも何とも言ってない状況において、子どもをそのうち産むだろう、産んで当たり前という文脈の言葉を投げかけられた時。
みなさん、うちは夫のせいしが見当たらないんです。って、言ってやりたい。
(もちろん言わない・・・、そして、本当に言ったら今度は”そんなことを言うなんて旦那さんがかわいそう”と思われるであろう。そういうものである。そういうものなんだよ。)
☆
何度も思う。
シンプルに、”相手から報告を受けたらおめでとうでいいのにね”、って。
相手からの報告もないままに、また、相手が子どもを望んでいるとも何とも言ってないのに、子どもを望むだろう(産むだろう)という前提の言葉を投げかけてるから相互の組み合わせによっては的外れでとてつもなく残酷な会話になってしまうことがある。
自分は子どもがいて幸せだ、と言うのならこちらは”そうなんですね”という感じだが、その先に”だからあなたも”という流れになるのであれば”それは違うだろう(あなたが勝手に決めるなよ)”と思う。
さらに言えば、勧めることを正当化するために”女の幸せ””一人前””親孝行”という考えや、少子化という社会問題と関連付ける文脈で語る場合もあるからこそたちが悪い。こちらはそうできない理由もあかせない(あかしたくない)、そして、はっきりと否定もできない。
苦笑いで何とかやり過ごすその瞬間、私はまるで泥水を飲まされたような思いになる。
残念ながら、どこにでもこういう会話はある。友達同士の会話でも、親戚の集まりでも、職場内でも、ご近所づきあいでも。それを自覚している人は自覚しているが、自覚していない人はそんな会話があったことすら忘れてしまうんだろう。
もちろん、”背中を押してもらえたから自分は子どもを産めました”と語る人もいるだろう。ある程度の圧力があったからその選択ができ、その選択を肯定的に受け止められる人もいる。でもそれは、”結果としてそうなったからオープンに語れる”のである。語られない部分にはなかなか光は当たらないものだ。また、語られないからといって”存在しない”わけではない。
語れない状況を背負っている人も確実に存在する。
☆
こだまさん夫婦が歩んできた二十年間を追体験し、最後にこだまさんが本当に言いたかったことを読んだ時に、どぅわっと涙が出てきた。
この本が、そして、こだまさんの言いたかったことがたくさんの人に届いてほしい。
そう願っている。